渋沢財団での仕事(4)『渋沢栄一伝記資料』

渋沢栄一 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

渋沢財団で私が主に担当していたのはこれまで書いてきた仕事が中心でしたが、それ以外にも多くの業務に触れることになりました。その一つが、『渋沢栄一伝記資料』(以下、『伝記資料』)デジタル化プロジェクトでした。『伝記資料』は渋沢栄一の事績を時系列または主題ごとにまとめた本編58巻と、日記や写真などの資料を集積した別巻10巻の全68巻からなる膨大な資料集です。本編のうち索引巻を除く全57巻は、「デジタル版『渋沢栄一伝記資料』」として2016年11月に公開されました。公開に至るまでに私はいくつかの作業を補佐しましたが、その経験をもとに『伝記資料』の記載事項のなかから2つを選んで記事を書きました。

この記事は2015年11月に新潟県長岡市で財団主催のシンポジウムが開催されたのを期にまとめたものです。渋沢栄一と実業界で協力していた大橋新太郎など長岡出身の何人もの人物について、『伝記資料』から情報をピックアップしてみました。

この記事は2015年度下半期にNHKで放映された連続ドラマ「あさが来た」に渋沢栄一が登場したことから、主人公が設立した日本女子大学校についての記述を『伝記資料』からひろったものです。

『伝記資料』について振り返ってみると、それは「伝記」ではなく伝記を書くための「資料集」であることを改めて意識します。栄一の嫡孫である渋沢敬三は、渋沢栄一の伝記を身内が書くとどうしても我田引水的になるので、第三者が書くのがふさわしいと考え、そのための資料集としてこの伝記資料をまとめたのです。本文を見ると、編者が書いたのは出来事を簡潔にまとめた「綱文」であって、その後にそれを裏付ける「資料」がたくさん載っています。たとえば第1巻の一番最初の綱文と資料は次のようになっています。

綱文:「天保十一年庚子二月十三日(1840年) 武蔵国榛沢郡安部領血洗島村ニ生ル。幼名市三郎又栄治郎、幼少時代ノ名乗美雄、後通称ヲ栄一郎名乗ヲ栄一ト改メ、青淵ト号ス。(以下略)」
資料:「渋沢栄一伝稿本 第一章・第一四―一五頁〔大正八―一二年〕
 先生の名、幼少の時は市三郎といひ、又栄治郎と改め、実名を美雄とつけたるは十二才前後の事なりしが、後又伯父渋沢誠室の命名によりて栄一と改め、之を通称となせり。(後略)」
資料:「雨夜譚会談話筆記 下・第七五一―七五五頁〔昭和二年一月―昭和五年七月〕
通称を屡々改められしに就て
先生「どうも理由を尋ねられても、はつきりお答は出来ないヨ。市三郎と云ふ名などは未だ生れたばかりの時に貰つたんだから……。(後略)」

「綱文」の方は「渋沢栄一がいつどこで生まれた」という出来事を簡潔に述べたもので、それの根拠となる資料の方は、『渋沢栄一伝稿本』『雨夜譚会談話筆記』などそれぞれの文献の中から関連する部分が引用転載されているのです。先日これはウィキペディアと同じだと気が付きました。ウィキペディアも本文とそれを裏付ける典拠資料がセットであり、典拠は「本文で扱う主題と利害関係のない第三者が書いたものが望ましい」とされています。そして典拠資料は多くの場合、資料の書誌事項あるいは該当ウェブサイトへのリンクとなっています。『伝記資料』はインターネットの無い時代の刊行物ですので、資料そのものを抜粋して転載しているわけで、構造としては全く同じです。もっとも学者が編纂した『伝記資料』とは違ってウィキペディアの方は誰でもが書けるので、典拠資料が不十分な記事も多々ありますが、それは今後補っていくことが期待されます。

『伝記資料』デジタル化を主として担当していた山田仁美さんは2006年に着任後、猛烈なエネルギーで仕事に邁進されました。早くも2008年1月発行の渋沢研究会誌『渋沢研究』第20号には「『渋沢栄一伝記資料』編纂に関する記録調査 : 『竜門雑誌』掲載記事を中心として」と題する研究ノートを発表され、伝記資料編纂の複雑な構造解明に挑戦されました。また2012年のEAJRSベルリン大会では、「『渋沢栄一伝記資料』:資料集としての生成とデジタル化」という発表をされました。2014年には全国各地を訪れた渋沢栄一の足跡をまとめた「ゆかりの地」コンテンツを公開されています。こうした実践や考察をさらに発展させ深化させた論考を、『記憶と記録の中の渋沢栄一』(法政大学出版局 2014年)の一節に「ブリコルールへの贈り物ができるまで:『渋沢栄一伝記資料』生成の背景」と題して寄稿されました。それは、全68巻に及ぶ大部で複雑な『伝記資料』のデジタル化に、文字通り日々格闘された記録でもあります。

山田さんとは、出張帰りにしばしば小旅行を共にしました。金沢の帰りには小松空港の手前にある白山市に立ち寄り、朝鮮通信使に俳句を献上したという俳人加賀の千代女の文学館に行きました。また大阪出張の帰りには松阪に一泊して伊勢神宮に参拝し、帰りに渋沢栄一が発起人、相談役を務めた参宮鉄道を継承している、JR東海参宮線に乗りました。長岡への出張も同道しましたし、京都の国立国会図書館関西館へ行った時も往復いっしょで、車中そして宿で渋沢栄一や『伝記資料』、それが生成していった時代や土地の風景について様々に語り合ったものです。このごろはコロナ禍もあり会うことは稀ですが、私とは全く別の視点から物事をとらえる山田さんとの会話は、豊かな刺戟と潤いに満ちていたのを懐かしく思い出します。

■参考
・デジタル版『渋沢栄一伝記資料』 https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/