渋沢財団での仕事(3)海外へ発信:小出いずみさんのこと

渋沢栄一記念財団の挑戦』『実業史研究情報センター実績集』

私を渋沢栄一記念財団に誘ってくださった小出いずみさんは、国際文化会館で図書室長、企画部長を歴任されたあと、2003年に渋沢財団のスタッフとなられました。そして同年11月に発足した実業史研究情報センター(以下、センター)が2015年4月に情報資源センターと改称されるまで、一貫してセンター長として事業の遂行に邁進されました。私は小出さんが国際文化会館時代になさってきた仕事について深くは知らなかったのですが、渋沢財団にきてからそれがいかにグローバルな発想に基づくもので、しかも深い哲学に貫かれているかを気づかされることになりました。

最初にびっくりしたのは、小出さんが毎年海外出張され、海外のライブラリアンや研究者たちと密接に連携し、意義深い仕事を積み重ねておられることでした。それは国際文化会館時代に種をまき育まれたお仕事の発展であると想像できましたが、小出さんはご自身でそうした交流をされるだけでなく、センターのスタッフ全員にその機会を与えて鍛えてくださったのです。具体的にはまず、EAJRS(European Association of Japanese Resource Specialists日本資料専門家欧州協会)という組織の年次大会に、センターのスタッフが交代で参加したことでした。私も勤め始めた年に早速、翌2006年秋のEAJRSに行ってくるように指示されました。つまり担当している社史データベースについてそこで発表しなさい、ということだったのです。これは私にとっては青天の霹靂で、国内でも人前で話すことなどほとんどなかったのに、いきなり外国で、とびっくりしました。しかし小出さんは「日本資料の専門家の集まりだからみんな日本語がわかるので、日本語で発表すればいいのよ」と涼しい顔です。

いくら発表は日本語でいいと言われても、一人で海外出張するのに私の英語はおぼつかなかったので、終業後に英語学校にみっちり通って備えました。また国内旅行の手配もめったにしたことはなかったのに出張手配は全部自分ですることになり、こちらもかなり挑戦でした。小出さんは私より少し年長ですが、英語はもちろんパソコンやネットワークの接続、旅行の手配など全部ご自分でこなされていたので、よちよち歩きの私はついていくのが大変でした。しかし小出さんの背中を見るうちにだんだん鍛えられていきました。

2006年のEAJRS年次大会は、イタリアのヴェニスで開催されました。発表のメインはヨーロッパ各地の日本資料コレクションを扱う機関の研究者や司書の方たちです。英国、フランス、ドイツ、イタリアといった国々だけでなく、北欧や東欧からもいろいろな発表がありました。それぞれのコレクションがどうして築かれたかは様々な経緯があり、たとえばノルウェー捕鯨関係が元になっているなど興味深いものばかりでした。私は社史DBについて日本語で発表し、無事に役目を終えることができました。EAJRSでは海外の発表者だけでなく、NDLやNII始め日本国内から第一線の研究者や実務担当者の方たちが参加されており、普段は接することのない最新の研究発表を聞くことができました。知り合ったお一人が国際日本文化研究センター図書館の江上敏哲さんで、江上さんが2012年に書かれた『本棚の中の日本:海外の日本図書館と日本研究』(笠間書院)は何度もページを繰りましたし、今も大切に自宅の本棚に収まっています。

このEAJRSは1989年に発足したのですが、小出さんの前職である国際文化会館図書室がそうしたネットワークの日本側の窓口の一つであることは間違いなく、海外からの参加者の輪の中心にいつも小出さんがいらっしゃるのでした。また海外に住む方にとって遠い日本についての情報は、日本資料コレクションを持つ各国の機関が窓口になるのは自然の流れで、そうした機関に正確な日本情報を流すことの大切さを目の当たりにしました。それまで情報発信の相手は日本国内しか頭になかった私にとって、このEAJRSの経験は大きな大きなカルチャーショックでした。海外の方が日本に対してどういう印象を持つか、学問だけでなく日常のビジネスや文化交流の場面で日本とどのように取り組むかという時に、日本が発信する情報の質が極めて大事なことは言うまでもありません。それの窓口になっている世界各地の日本研究機関、日本資料コレクションの所蔵機関との密接なネットワークの大切さを、小出さんは身をもって示してくださったのでした。毎年の年次大会にセンターから必ず誰か派遣して発表することで、スタッフ全員が「情報発信の相手は全世界」だということを全身で身に着けるように小出さんは育ててくださいました。

秋のEAJRSに加え、春には米国のAAS(Association for Asian Studies アジア学会)にも小出さんは毎年参加され、アメリカやカナダの研究者や司書の方たちと幅広いネットワークを築いてらっしゃるのでした。そうした所で得られる最新の情報を取り入れながら、センターの事業は構築されていき、私たちスタッフの視野も、少しずつ海外に向けて開かれていきました。2011年3月11日の東日本大震災の後、社史を担当していた私は「社史に見る災害と復興」というカテゴリーでブログに連載記事を書きましたが、小出さんはこれをテーマに発表することを提案され、私はその年のEAJRSと翌2012年のAASで発表することになりました。AASは英語での発表が必須なので、この時は必死で英語のプレゼンテーションを練習し、秋のEAJRSでは英国ニューカッスルの会場で英語で発表しました。翌年のAASはカナダのトロントで開催され、ここでの経験も忘れがたいものでした。

小出さんはご自身で発表するだけでなく、2014年には渋沢栄一に関連するAASパネルのオーガナイザーを務められました。この年のAASは米国フィラデルフィアで開催され、小出さんはパネルの企画、登壇者の調整、当日の進行など、事前準備から全て英語で進められていました。こうした小出さんの仕事ぶりに私たちスタッフは日々接していたので、海外との円滑なコミュニケーションの大切さを知るとともに、それを維持し育んでいく姿勢の重要性を大いに学びました。今私がウィキペディアで外国語版の記事を翻訳することにたくさんの時間を割いているのも、小さなことではありますがその姿勢の一つの現れです。本当は日本語の記事を外国語版に翻訳したいのですが、私の語学力ではそこまでできないのが残念です。

■研究者としての小出さん
小出さんはセンターでの仕事のかたわら、東京大学大学院の学生として、在職中に修士課程を終え、博士課程に進んでおられました。修士論文では国立公文書館に設置されたアジア歴史資料センターの成立過程をテーマにされましたが、博士論文では国際文化会館初代図書室長でライブラリアンの「福田なをみ」をテーマにされていました。もっとも仕事中にそうしたお話を詳しくうかがったことはないのですが、ブログの文章を皆で検討する際などに、しばしば研究者としての姿勢を垣間見るということがありました。毎週のブログ編集会議はさながら小出学校の様相で、情報を的確に伝える文章の組み立て、言葉遣い、典拠の有無や質など、実に様々な観点から鍛え上げられました。こうした文章だけでなく、センターの事業の企画、実践、そして記録に至るまでのひとつひとつを丁寧に構築され、スタッフ全員がそれぞれの力を十全に発揮できるように配慮してくださいました。特に『渋沢栄一伝記資料』のデジタル化については10年以上もかけて綿密な計画を練り、予算を獲得して人員を配置し、多くの困難を乗り越えながら2016年のデジタル版公開に到達しました。その中で繰り返し語られたのは、「渋沢栄一を歴史的な文脈の中において考えるための拠点になる」という理念でした。それを実現に導き、国内はもちろん広く海外に向けて情報を発信し続けることを小出さんは実践されたのです。そうした過程も含め、小出さんはご自身が推進したセンターの事業について、財団史にあたる『渋沢栄一記念財団の挑戦』(不二出版 2015年)の第2章に詳しくまとめられたところで定年を迎えられ、退職されました。そしてその記述を裏付ける資料集は、『実業史研究情報センター実績集』として残ったスタッフがまとめ、センターのウェブサイトで公開しました。今回このブログを書くにあたり、これら2つの資料を何度も参照しました。

小出さんはその後も博士論文の執筆を続けられ、2020年に博士号(文学)を取得、論文は2022年に『日米交流史の中の福田なをみ:「外国研究」とライブラリアン』として勉誠出版から刊行されました。この本は2021年度東京大学而立賞、また2022年の第23回図書館サポートフォーラム賞を受賞されました。小出さんから多くを学んだ者の一人として、実に嬉しく誇らしく感じております。

■参考