渋沢栄一記念財団に至るまで

チューリップ 2023-01-09筆者撮影

公益財団法人渋沢栄一記念財団(以下、渋沢財団)で仕事をするようになったいきさつには、長い長い物語があります。駆け足でそれをたどってみます。

1977年に図書館学校を卒業して就職したのは、協和銀行でした。専門分野の資料を扱う専門図書館で仕事をしたいと考えていたところ、協和銀行調査部から司書一名の募集が学校宛てにあったのです。他に某大メーカー資料室からも求人があり、迷った私は恩師河島正光先生に相談しました。「そのメーカーは良い会社で資料室も充実していますが、銀行というのはあらゆる業種にお金を貸すので、調査部ではあらゆる業種の情報を集めており、その資料室は面白いですよ」という先生の一言で、銀行に決めました。職場は大手町で、河島先生の講義で聞いていた大手町資料室連絡会のあるところで仕事ができるとはりきっていました。仕事を進める中で上司を説得し、学生時代見学した経団連図書館で同僚と共に実習させていただいたのもなつかしい思い出です。その時には司書の村橋勝子さんにもいろいろお世話になりました。銀行では5年間専門図書館の実務をみっちりこなし、また日本経済新聞もよく読むようになりました。協和銀行のルーツが東京貯蓄銀行だということは務めているうちに知りましたが、その設立に渋沢栄一が深く関わり、70歳で多くの会社の役員を引退した時もこの銀行の会長は続けたという特別の関係であったと知ったのはずっと後、渋沢財団でのことでした。

専門図書館の団体である専門図書館協議会(以下、専図協)は当時国立国会図書館の中に中央の事務局があり、関東地区の事務局は丸の内の東京商工会議所図書館にありました。その関東地区事務局の担当者が退職するというので、そこへ転職したのは1982年のことでした。ここで3年間業界団体の仕事をし、会合の設営、研修など様々な事業の取り仕切り、刊行物の編集発行などを通じて、組織のマネジメントについて学ぶとともに、大勢の専門図書館関係者と知り合うことができました。その一人が、国際文化会館図書室の司書であった小出いずみさんでした。また東京商工会議所も設立に渋沢が関わったと後で知りました。

転職についてはいつも、河島先生の職業観が頭にありました。先生は神奈川県立図書館を始めとして、機械振興協会の図書館(今のBICライブラリ)、河島事務所、産業能率大学図書館、と職場を移られていました。それについて、「最初からひとつの図書館で仕事をするつもりはなかったのです。4年単位で職場を変えようと思っていました。最初の県立図書館には6年いましたが、4年単位の1期半でした。次の機振協は10年いたので、2期半です。独立した事務所は丁度1期4年でした。現在の産能大にはいつまでいるでしょうか。図書館の種類も公共図書館専門図書館大学図書館と、いろいろめぐってきました。図書館員の技能はさまざまな場所をめぐることでみがかれていくものです」(注)とおっしゃっていました。私も銀行に5年いたので、専図協の3年と併せて8年、丁度2期分になるなあと思い、結婚を機に1985年に退職しました。

次の4年間は様々な図書館の実務を経験しましたが、次男が生まれたのを機に1989年に子育て中の司書仲間と一緒に、在宅で図書館関係のデータを入力する会社を立ち上げました。会社の名前は、図書館の仕事をサポートするのでLibrary & Information Science Assistanceという英語の頭文字をとってLISAとしましたが、当時はローマ字では会社登記ができなかったので、「有限会社リサ」という名称で登記しました。図書館界ではコンピューターの導入がどんどん進んでいた時期で、目録データの遡及入力の仕事がたくさんありました。また雑誌記事索引もいろいろ手がけ、その主題は人文科学、社会科学、科学技術と多岐にわたり、家にいながら社会の動きを知ることができました。昭和から平成に変わり、ベルリンの壁が崩れ、ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)が考案された時期でした。

データのやりとりも最初はフロッピーディスクだったのが、パソコン通信を経てインターネットになって行きました。NACSIS-CATにデータを搭載する時は、専用回線をひいてやりとりしました。それは桐朋学園大学音楽学部附属図書館の楽譜データを登録する仕事で、何千点もの外国の楽譜を少しずつ会社のオフィスに送ってもらい、それを見ながら目録情報をルールに沿って入力するという、実に興味深く面白い仕事でした。オフィスは自宅の一室であったり近くに部屋を借りたりしました。いろいろな仕事を皆で少しずつシェアし、在宅でできる仕事、パートタイムで出勤する仕事など、フルタイムでなくても充実した仕事をこなすことができるように工夫を重ねました。うまくいったことばかりでなく失敗もありましたが、皆でカバーしあい、しかし責任は社長の私がとり、子育て情報もシェアしながら16年半ほど続けました。河島流だと4期ちょっとになります。昨今はコロナ対策で在宅勤務が広まっていますが、この会社ですでにメリットデメリットをたっぷり経験していたので、慌てることはなかったです。

さて遡及入力の仕事が一段落し、スタッフの子どもたちも手がかからなくなったこともあり、そろそろ会社をたたもうかと考えていた2004年の秋に、渋沢史料館の見学会というのに誘われました。2003年に小出いずみさんから渋沢財団に転職した、という葉書をいただいていたこともあり、興味があったので見学会に申し込んでみました。当日はまず渋沢栄一の生涯を簡潔にまとめたビデオを鑑賞したところ、名前しか知らなかった渋沢が幕末にパリ万博に出かけ、そこで得た知識経験を基に明治の日本を築いていったというダイナミックな足跡に、すっかり魅せられてしまいました。そして渋沢史料館の中を案内に従い進んでいくと、実業史研究情報センター長の小出さんが待ち構えていて「資料の整理がたまっているのだけど、門倉さんの会社でやってもらえませんか」とおっしゃるではありませんか。私は「会社はもうすぐたたむので、私個人でならうかがえます」とお答えしたところ、「あらそうなの、じゃそうしてもらおうかしら」ということで、2005年から渋沢財団に通うことになりました。53歳の時でした。

(注)初出は「Kadoさんのブログ 2014-02-05