ルシア・ベルリンとファミリーサーチ

ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引書』

新聞の書評欄にオードリー・ヘップバーンソフィア・ローレンを足して二で割ったような美人が火の付いた煙草を手に持ち、その印象と全くギャップのある『掃除婦のための手引書』という書名があって、思わず見入ってしまいました。2019年10月のことです。書評を読むと著者ルシア・ベルリンは、「結婚は3度、息子が4人。シングルマザー。アルコール依存症」とあり、しかもこの本は「没後11年目にアメリカでベストセラーになった」とのこと。さらに「私小説とくくるには泥臭さがなく、半自伝的と表すには、自分を突き放したクールさがある。……ユーモアのセンスは天賦のもの。そして随所に労働者階級のポエジーがきらめく」という書評に惹かれ、すぐに注文して期待に違わない読書を楽しみました。波乱に富んだ自身のあゆみを題材にした短編はどれもウィットに富み、自然な文体で訳文もこなれ、ステレオタイプアメリカ人とは一味違う人生があることを知らせてくれました。

著者の事をもうすこし詳しく知りたいと思いましたが、日本語版ウィキペディアには記事がありません。英語版にはもちろんあり、出典もきちんとつけられていましたので、コロナで自宅待機となった2020年4月に翻訳をしてみました。すると著者の父親は鉱山技師で、アラスカから米国各地、そしてチリの鉱山地帯にも家族で移り住んだことがわかりました。またベルリンは生活のために掃除婦だけでなく、看護師などの専門職も務め、コロラド大学ボルダー校で文章創作を教え、准教授も務めたことがわかりました。その活動範囲の広さに感心しましたが、ベルリンは刑務所でも教えていたそうで、道理で文章がうまいわけだと納得しました。そしてアメリカの刑務所には文章創作の教育も取り入れられているのは素晴らしいと思いましたが、日本ではどうなのでしょうか。

翻訳をするときは元記事の全体をよく眺めて典拠がきちんとついているかは確認しますが、翻訳自体は最初から順に作業していくので内容にはいろいろ発見があり、そこからさらに別の興味も広がり、それが楽しいです。この時も訳していくうち、チリの鉱山がでてきて脳みそを刺激しました。南米の鉱山といえば政治家高橋是清が若いころ事業に失敗したのを想起したので調べると、チリでなく隣のペルーの銀山のことでした。渋沢栄一と同時代を生きた人物については、その動向を何かと気にしていたものです。またベルリンが教えていたコロラド大学ボルダー校といえば、戦時中に米国海軍日本語学校が移設され、ドナルド・キーンが学んだことでも知られます。海軍なのにどうして高地にあるコロラド州なのだろうと不思議に思ったものでしたが、まあ日本語学校は海に近くなくていいのでしょう。さらにベルリンが脊柱側弯症などの病気に悩まされていたことを知り、同じく不自由な体で創作を続けたメキシコの画家フリーダ・カーロを思いだしました。この画家を知ったのは、1990年ころ仕事をしていた雑誌記事索引の作業で扱った雑誌『マリ・クレール』でした。フリーダの夫ディエゴ・リベラの名前も知り、メキシコの巨大な壁画についても知ることができました。自分では普段読まない雑誌のページをくまなく繰った索引作りは、知らず知らずのうちに世界を大きく広げてくれたものでした。

さて、ひととおり翻訳が終わり記事を公開しましたが、ひとつ気になったことがありました。それは著者の生没年の典拠が、「FamilySearch」という英語版ウィキペディアの記事になっていて、それが何なのかよくわからなかったことです。そこでこれも翻訳してみることにしました。まず「FamilySearch」という言葉ですが、適当な日本語訳がみつからなかったので、そのまま「ファミリーサーチ」としました。そして定義文は「系図の記録、教育、そしてソフトウェアを提供する非営利団体であり、そのウェブサイトである」と訳しました。欧米では家族のルーツを捜すのが盛んで、そのために公文書館を利用する市民が多いそうですが、このファミリーサーチもそうしたルーツ探しのツールとして利用されていると想像しました。しかし訳していくうちにどんどん知らなかった世界が広がり、驚きの連続だったのを思い出します。

翻訳の一方で知り合いのアーキビストに「ファミリーサーチ」って知ってますかと尋ねると、なんとNDLカレントアウェアネスや記録管理学会機関誌『レコード・マネジメント』に関連の記事があることを知らせてくれました。確かに家系図に関する情報資源は、アーカイブズや歴史研究にとって不可欠であります。そこで挙げられていたものも参考文献にして翻訳をしあげ、記事を公開しました。すこし時間と手間がかかりましたが、数日後にウィキペディアンの投票による「新しい記事」に選ばれ、やった甲斐があってよかったです。それにしても海外には系図関係のビジネスがたくさん存在することを知り、驚くとともにいろいろ考えさせられた経験でした。

ルシア・ベルリン
ファミリーサーチ