翻訳に挑戦─マキューアンの小説『贖罪』

イアン・マキューアン、2011年パリ(Thesupermat, CC BY-SA 3.0, ウィキメディア・コモンズ経由で)

2019年3月、「21世紀に書かれた百年の名著を読む【第1回】仲俣暁生X藤谷治イアン・マキューアン『贖罪』を読む」というイベントがあることを知りました。なんとなく面白そうと思いましたが、作家も作品も知らなかったのでまずは読んでみることにしました。新潮文庫で上下2巻、計600ページを超える長編でしたが、ぐいぐい引き込まれて一気に読み終わりました。マキューアンはイギリスの小説家で、2001年に発表された『贖罪』の主要舞台は第二次大戦前後のイギリスと、フランスの戦場。最も心を動かされたのは第2部の戦場、主人公が属する連合軍のダンケルクへの退避場面でした。第二次大戦のヨーロッパの戦場について深い知識はありませんでしたが、ダンケルクという地名の持つ意味の重みが深く心に響きました。私の頭の奥には中国戦線に従軍した父の存在があるのです。もっともこの小説が描くのは戦争という大きな世界ではなく、一人の少女の犯した過ちによる家族の分断と修復です。

イベントの方はあいにくスケジュールが合わず参加できませんでしたが、ウィキペディアを見ると、小説の記事は英語版にはあっても日本語版になく、日本語版には『つぐない』というタイトルで映画化された作品の記事だけがありました。そこで元の小説の方を英語版から翻訳してみよう、と思い立ったのです。翻訳は初めてでしたので、ウィキペディアの「翻訳のガイドライン」記事をよく読み、それに沿って進めていきました。全体の構成は英語版に沿って、定義文、あらすじ、登場人物、そして受賞と批評、論争も含めました。英語版では作品の内容だけでなく、批評や論争についても触れているのは、ウィキペディアの中立的な視点が守られていると感じました。いざ訳し始めてみると、原文の英語はもともと百科事典の記事なので、難しい言い回しや文学的比喩などはほとんどなく、辞書なしでもなんとか日本語にすることができました。それでも間違いがあってはいけないので、まず自分で訳してから自動翻訳の助けを借りていくつか修正を施し、映画作品の記事も参考にしながら仕上げました。

文中にたくさん出てくる固有名詞の翻訳はなかなか大変でした。この時にどうしたかはよく覚えていないのですが、今はたとえば「Saoirse Ronan」という人名が出てくると、英語版のその人物の記事を開き、そのページに日本語版があればそのカタカナ表記(この場合「シアーシャ・ローナン」)をあてはめ、日本語版へのリンクを埋め込む、という手順でひとつひとつ確認していきます。日本語版にその人名が無い時は、他のサイトで確認したり、Google翻訳に入れて音声を聞き、それに近いカタカナ表記をあてはめ、その上で英語版への「仮リンク」というのをつけるようにしています。この辺りはいろいろなやり方、考え方があるので、記事により一様ではないようです。ウィキデータも活用していますが、煩雑になるのでここでは省略します。

さて記事を公開した後で、気になっていたことを先輩ウィキペディアンに相談し、いくつか修正していただきました。また「あらすじ」はもともと詳しく書かれていたのをできるだけ忠実に訳したのですが、小説のネタバレになるのではと思い直し、そうした部分をいくつか簡略に書き改めました。今回この文章を書くにあたり記事を見直したところ、「あらすじ」についてはどなたかが詳しいヴァージョンに再度書き改めておられるのを確認しました。個人的にはちょっと書きすぎではと思いましたが、ウィキペディアの「あらすじの書き方」ガイドを読むと、「ネタバレ」についても言及がありました。そこには「百科事典としての性質上、ウィキペディアにはネタバレが含まれます。また編集者はネタバレに対して特別な配慮を行う義務を負いません。その情報が作品の持つ重要性を説明し、あるいは物語全体の構造を説明するのに必要なものなのであれば、ネタバレを記述することに躊躇しないでください。またそれがネタバレであるからという理由で、記事から記述を除去したり、意図的にその情報を省略したりするべきではありません」と書かれています。確かにその説明は理解できますが、だからといって詳しければいいというものではないでしょう。このあたりは作品によって充分に吟味、考慮した上で記事を書く必要があると思います。昨今の「映画を早送りで見る若者」に迎合する必要はないのです。いずれにせよ編集履歴は全て残されているので、いつでもだれでもその経過をたどることができます。

日本語版の記事を最初から作るのは、典拠となる参考文献をある程度調べ上げる必要があり、それなりに時間とエネルギーが必要です。しかし翻訳の場合は典拠のしっかりついた記事であればそうした手間は省けるので、これはなかなかいい、と思うようになりました。また一つの記事の各国語版を比較してみると、それぞれの特徴が見えてくるのも面白いです。このマキューアンの「贖罪」はヨーロッパ各国語の他に中国語やハングルを含め25か国語版がありますが、「源氏物語」などはなんと91の言語版があり、アラビア語版を覗いてみると右から左へ書かれた文章が入っていて目がくらくらします。私はアラビア語は読めませんが、自動翻訳にいれてみると雰囲気がわかります。こういう記事をいろいろ見ると、ウィキペディアの世界は物理的な国境を越えて一続きにつながっているのだなあと、しみじみ感じます。

贖罪 (イアン・マキューアンの小説)