ニール号遭難事故とフランス郵船

吉野山蒔絵見台。東京国立博物館蔵。沈没したニール号から引き上げられるまで1年以上海中にあったが、近年修復されて往時の輝きを取り戻した。出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/H-108?locale=ja

ニール号というのはフランスの貨客船で、この船は1874年(明治7年)3月に伊豆半島の沖で座礁沈没してしまいました。積み荷は前年オーストリアのウィーンで開催された万国博覧会に日本から出品した品と、現地で調達した品でした。この遭難事故について知ったのは、企業史料協議会主催くずし字研究会のテキストにでてきたからです。くずし字研究会では主に幕末から明治にかけての政府や民間の文書を読み進めていました。渋沢財団で渋沢栄一の実業家としての足跡を追っていた私ですが、扱っていたのは明治以降の出版された文献ばかりでした。しかし渋沢は1840年生まれ、実業界に身を投じたのは1873年、丁度ウィーン万博の年で、当時33歳。それまでの人生は「くずし字」の中にあったのです。それに気が付いて以来、いつかくずし字を学んでみたいと思うようになりました。ウィキペディアを始めた2016年の4月になって、念願の研究会に参加しました。

ニール号を扱った2018年の研究会では、事故の模様を伝える様々な手書き文書を読み進めていきました。事故現場である伊豆半島の先端にある村々の戸長から、足柄県権令(今の県知事)に宛てた書類。その権令から内務卿、外務卿など中央政府へ宛てた書類。博覧会事務局から大臣に宛てた書類などなど。一つの文書は必ず控えがとられるし、同時に複数の宛先に送ることもあるので、コピー機など無い時代ですから同じ内容を別々の人が書き写しています。読みやすいものもあればミミズが這ったような文字まで種々様々で、相当に鍛えられました。また文字だけでなく、当時の博覧会事務局の置かれた立場とか、行政の情報伝達の仕組みとか、当時の文書を通じて実に様々な背景を知ることもできました。

テキストを読み終わってから2年以上たった2021年の元旦、思い立って伊豆半島の先端まで日帰りドライブに出かけました。朝6時半すぎに出発して多摩川あたりで初日の出を拝み、御殿場で富士山を間近に見てから南へ降り、伊豆半島の真ん中を下田へ向かいました。明治の初期は中央の役人が何日もかけてこの道を徒歩で下田に向かったと、くずし字文書にありました。お役人も見たであろう景色を眺めながら、11時ころに下田の海蔵寺という寺にある、ニール号遭難者の慰霊塔に到着。手を合わせて拝んでから写真を撮りました。逆光でしたが墓に刻まれたフランス語の追悼文も何とか収められました。次は遭難現場に近い入間港にでてみました。車を駐車場に停め海岸まで降りる階段を行きましたが、ものすごい強風で吹き飛ばされそうになり、すごすごと退散。風は一時的でなく、四六時中吹いている印象で、これでは船が座礁したのも無理はない、と感じた次第です。その後は西伊豆をぐるっと回ってから夕方に帰宅。

写真を撮ることができたので、早速ウィキペディアの記事を準備しました。ニール号について書かれた文献をいろいろ調べ、くずし字研究会で読んだテキストと同じものをアジア歴史資料センターのサイトでみつけたり、海から回収された品を展示している東京国立博物館の画像をジャパン・サーチでみつけたりすることができました。沈没した品々は海が常に荒れているのでほとんど回収できず、今も海底に眠っているのですが、2004年から海底調査が行われていることもわかりました。そうして集めた情報をまとめ、写真も貼り付けて「ニール号遭難事故」という記事を公開しました。

2022年秋に改めて記事を見直し、NDLデジタルコレクションで「ニール号」を検索して新たな情報を発見。以前はニール号が「フランスのマルセイユから横浜まで荷物を運んだ」、という情報しか見つからなかったのですが、くずし字研究会では「トリエステから荷物を積んだ」という文書を読んでいたので、船の航跡が今一つよくわからなかったのです。トリエステアドリア海に面したイタリアの港ですが、当時はオーストリア=ハンガリー帝国の領土でした。ウィーンから船に荷物を積むには最もふさわしい港だったのでしょう。ではマルセイユを出港した船がトリエステに立ち寄ったのか、疑問でした。

だいたいニール号は「仏国郵船」の船、とテキストにあるのですが、日本郵船は知ってても「仏国郵船」とはなんだかわかりません。そこでいろいろ調べたところ、Messageries Maritimesというフランスの海運会社だとわかってきました。Messageriesはメッセンジャーで「郵便を運ぶ」、Maritimesは「海の」、というわけで、翻訳したら「仏国郵船」になったのでしょう。「フランス郵船」としている文献もいくつかありました。この会社は英語版Wikipediaに記事があったので、翻訳して「メサジュリ・マリティム」という記事を出してみました。この会社の船はマルセイユからスエズ運河を通って東洋まで運行していたのです。もう一つわかったのは、トリエステで博覧会の荷物を積んだのはイギリスの船で、スエズ運河入り口のポートサイドまで運び、そこで仏国郵船の船に積み替えたのでした。またニール号は香港と横浜を往復する短距離航路の船だとわかり、大型船がポートサイドから香港までやってきてから、ニール号にもう一度積み替えたのです。ニール号マルセイユから長旅をしてきたわけではありませんでした。

さらに大きな発見は、『東京国立博物館百年史』(1973)に詳しい記述と資料が掲載されていることと、歴史学者クリスチャン・ポラックの著書『百合と巨筒』(在日フランス商工会議所、c2013)に、ニール号の遭難を詳しく述べた章があることでした。東博の『百年史』は慶應大学図書館(三田メディアセンター)で、ポラックの本は日仏会館図書室でそれぞれ現物を確認しましたが、長年の疑問が一気に解決した気分でした。こうして新たに発見した文献で判明したことを取り入れ文章を修正し、脚注も追加して更新しました。2022年12月には東京国立博物館創立150年記念特別展で、海底から引き揚げられた「吉野山蒔絵見台」の実物を観ることができ、公開されているその画像へのリンクも記事に追加しました。ウィキペディアは成長する百科事典なので、これからも新しい情報を加えていければと思います。