歌人長沢美津、五島美代子、五島茂

五島茂(AleksandrGertsen, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

2006年に亡くなった母は、短歌や俳句に長く親しんでいました。それに関する蔵書がたくさんあり、2011年に実家を改築する際、私が引き取ることになりました。といっても狭い家に置く場所もなく、とりあえず倉庫会社に預けていたのです。しかし自分自身も歳を重ねてくると、まだ元気なうちに整理してみようと思い立ち、昨2022年秋に倉庫会社から段ボール10箱ほどを取り寄せました。

箱を一通り開け、種類別に大ざっばに仕分けてみると、短歌と俳句それぞれに書籍と雑誌の山ができました。短歌の書籍の山には、五島茂、五島美代子、長沢美津、の3人の歌人の歌集がとりわけ多くありました。母がこの先生方に指導していただいていたのは何度か聞いたことがありますが、どのような方なのかはほとんど知りません。ウィキペディアを覗いてみると3人とも既に記事があり、著名な先生方なのだとわかりました。しかし今回取り寄せた書籍や雑誌からわかることもいろいろありそうだったので、それぞれの記事に加筆してみることにしました。

最初に取り組んだのは「長沢美津」でした。長沢が主宰していた女人短歌会の結社誌『女人短歌』は1950年創刊で、母の蔵書に何冊かある中に1997年の終刊号もあったのです。長沢美津は99歳で没していますが、一人の歌人が結社創立に参加し、それの終焉まで見届けて亡くなったという事実の重さが心に染み入りました。また1905年金沢生まれの長沢が、上京して日本女子大学校(今の日本女子大学)で国文学を学び、高名な学者久松潜一に師事したことも知りました。戦前期に大学まで進学して学んだ女性は数少ないと思うので、その向学心に感じ入りました。

長沢は短歌を詠み指導するだけでなく、『女人和歌大系』という全6巻の研究書をまとめていることもわかりました。これは記紀万葉の時代から昭和戦前期までに日本の女性歌人が詠んだ和歌8万首を、系統だって集積したものです。博士号まで取得した長沢の学者としての業績は高く評価されていたらしいですが、16年にわたり一人でまとめあげた『女人和歌大系』は索引もきちんと付けられたレファレンスブックでもあり、もっと広く知られていいと思いました。そこで全貌を知るために図書館で閲覧し、概要をウィキペディアの長沢の記事の中に載せておくことにしました。NDL書誌には目次が出ていますが巻ごとなので、一覧できるものが見当たらなかったのです。出来上がった記事で全貌を眺めてみると、長沢の志の深さがしみじみと感じられます。

次に取り組んだのは「五島美代子」です。こちらも夫の五島茂と共に立春短歌会を主宰し、結社誌『立春』を1938年に創刊しています。この「立春」という言葉や美代子先生、茂先生の名前は母の口から何度も聞いており、毎月送られてくる『立春』を母が大切に読んでいたのを思い出します。この『立春』はそれこそ何百冊も母の蔵書にありましたが、番号順に整理してみるとこちらにも終刊号が1998年刊行第562号として入っていることがわかりました。その他にも「創刊50周年記念号」などの特別号があり、そこに記された結社の歩みも次第にわかってきました。皇太子妃美智子さま(現・上皇后さま)の和歌の師であった五島美代子は夫に先立ち1978年に没しており、夫の編集で『定本五島美代子全歌集』が1983年に出版されていました。

五島茂」のほうは2003年に103歳で没しましたが、晩年まで歌集を出しつづけていました。経済史学者として身を立てる一方で、美代子と共に立春短歌会を生涯率いていたのです。立春短歌会は全国に支部を持ち、市井の人々に短歌を広めていました。そうした小さな組織の活動は無くなってしまうと急速に忘れ去られるので、結社のほうも「立春 (短歌結社)」としてウィキペディアに出しておきました。日本の短歌結社は数えきれないほどあるようで、その中で立春短歌会がどの位の位置を占めるのかはわからないのですが、全国に支部を持ち多くの人々が集ったこと、戦争をはさんで60年に渡り結社誌を出し続けていたこと、足跡をきちんと結社誌にまとめていることなどから、ウィキペディアに立項する意義を見いだした次第です。しかし自ら記したことだけを典拠とするのは避けなければいけないので、NDLデジタルコレクションなどで「立春短歌会」に関する情報を検索し、脚注に追加しました。一方で長沢美津の女人短歌会の方は立春短歌会ほどの広がりは持たなかったようなので、今回の立項は見送りました。

明治の末に生まれた私の母は女学校に通っていたころ関東大震災に遭い、結婚した父が長男を残して出征するなか婚家に仕え、戦後復員した父と共に5人の子どもを育て上げました。末っ子の私には想像もつかない苦労を経験したはずですが、それを表に出して嘆くようなことはありませんでした。心のうちに秘めていた思いをおそらく短歌や俳句にたくさん詠ってきたのだと思います。母は自分の作った短歌や俳句をまとめて本にすることは一切望んでいませんでしたので、メモしたものがわずかに残っているだけです。せめて恩師についてウィキぺディアに確かな情報を載せることが、母の供養になるかなと思います。