ダンサー宮操子の物語

宮操子、ハチ、成岡正久小隊長(作者不明、Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

WikiGapエディタソンで公開したダンサー宮操子(1907-2009)について、それまではウィキペディアで名前を検索すると本人の記事は無く、パートナーの江口隆哉(1900-1977)の記事へリダイレクトされている、という状況でした。二人は同じ舞踊団に入って知り合い、結婚して共にドイツへ留学し、帰国後に自分たちの舞踊団を立ち上げて広く活動した舞踊家でした。しかし共通事項は多々あるものの、人物としては生まれも育ちも、晩年の活動も異なっているので、宮操子の独立記事を作ってもいいのでは、と考えました。

そもそも宮操子の名前を知ったのは、私の所属しているオーケストラ・ニッポニカの演奏会で伊福部昭作曲『プロメテの火』という舞踊組曲を演奏することになったからでした。この作品は江口と宮が1950年に発表した創作バレエのために作曲されたもので、二人が主要な役割を演じています。江口については西宮安一郎編『モダンダンス江口隆哉と芸術年代史 : 自1900年(明治33年)至1978年(昭和53年)』 (東京新聞出版局, 1989)という、1,000ページを超える膨大な資料がまとめられており、宮の情報も載っています。しかし宮は江口より30年以上長生きしていることもあるので、他の資料も捜してみました。

そこで発見したのが、『戦野に舞ふ : 前戦舞踊慰問行』 (鱒書房, 1942)という、第二次大戦中に宮自身が著わした本でした。タイトルを見てびっくりしましたが、これは戦中に江口・宮舞踊団が陸軍省の要請で中国の戦地に3回赴き、現地で行なった慰問公演の模様を書き綴ったものでした。この本はNDLデジタルコレクションに収録されていて何枚もの写真も掲載されているので、私の父も体験したであろう戦地の模様を詳細に知ることができました。序文は陸軍中将上村幹夫が寄せており、慰問を受ける側の兵士たちの心情を伝えています。この上村幹夫中将についてウィキペディアに記事があったので読んでみると、宮と出会った後に満洲で捕虜となりシベリアへ抑留され、「ハバロフスク自死」とあったので胸が痛みました。

宮は晩年にも『陸軍省派遣極秘従軍舞踊団』 (創栄出版, 1995)という著作を出しています。こちらは第1章がドイツ留学のことで、第2章が中国とシンガポールの戦地で行なった慰問公演の模様、第3章はシンガポールからの帰還船に同船したイギリス人捕虜の話でした。この第2章の最後に、戦地で出会った豹の子どもについて書かれた1節がありました。病に倒れた宮が、ハチと名付けられた子豹に癒された話で、戦後の後日談もあり興味深い内容でしたので、ウィキペディアの記事にも1項目立てていれてみました。WikiGap当日にこれを見た先輩ウィキペディアンの方が、「これはSwaneeさんが前に出したハチの記事のことですね」とおっしゃるではありませんか。驚いて調べると確かに「ハチ (ヒョウ)」という記事があり、戦地でハチを保護した小隊長成岡正久とハチのことが詳しく書かれていました。そこで宮操子の記事からは「詳細は「ハチ (ヒョウ)」を参照」という注記をつければいいとの提案をいただき、そのとおりにしました。また「ハチ (ヒョウ)」の記事には宮操子とハチと成岡小隊長の写真がついていて、その場にいらしたSwaneeさんがどうぞお使いくださいとおっしゃってくださったので、私の記事にも貼り付けました。この写真はパブリックドメインでしたが、宮操子の写真で使えるものは捜し切れていなかったので、とても助かりました。公開後にどなたかが宮の写真を追加してくださいました。

宮の著作は他にもありましたが、ウィキペディアの出典には記事の主体となっている人物の書いたものでなく、本人と利害関係のない第三者の書いたものが望ましい、とされています。これは中立性を担保するためであり、「自分の事は書かない」というウィキペディアの方針を守るためでもあります。ですので「宮操子について書かれたもの」を捜していくと、桑原和美という研究者が書いた「宮操子の半生と戦地慰問」(就実論叢. 41号, 2011.2, pp61-81)という記事を見つけました。ここには宮の伝記的情報がきちんとまとめられていましたので、何か所もの出典として使うことができ、このほかにもいくつかの雑誌記事を見つけて情報を拾いました。またこの時は『プロメテの火』という作品についても同時並行で調べていたのですが、こちらは『《プロメテの火》アーカイヴ 1950-2016』という、同じ桑原和美が編集制作したDVD3枚と冊子があることがわかりました。この資料はNDL東京本館の音楽・映像資料室で閲覧することができ、冊子には宮の情報もあったので、典拠資料として使いました。音楽・映像資料室にはDVDを視聴する設備もあったので、貴重な映像と音楽を鑑賞することができました。

このようにしてたくさんの情報を集め、ウィキペディアの記事を作ることができました。改めて宮操子の記事を読んでみると、戦前、戦中、戦後といずれも激動の時代の中で、自分の求める道を果敢に突き進んでいった気丈な女性の姿が浮かび上がります。その足跡をウィキペディアの中に書き記すことで未来へ伝えられるのは意義深く、大きなやりがいを感じます。