林光の管弦楽曲『八月の正午に太陽は…』を11月に演奏することになり、曲名の由来を調べてみました。1931年に生れた林光の年代から考えると、「八月の正午」は1945年8月15日、終戦の日の玉音放送が流れた時間をまず思い浮かべました。しかし曲の解説にはこれは中国の詩人ペイタオ(北島)の『八月の夢遊病者』という詩にある「八月の正午に太陽は無く」から採ったとあります。そこで今度はペイタオの詩集を探して調べると、この「八月」は1977年8月を指し、それは文化大革命の終結宣言が出された時であることがわかりました。
中国の詩といえば「国破れて山河在り」で始まる『春望』の杜甫とか、マーラーの『大地の歌』に使われた李白とかを思い浮かべますが、二人とも唐代の詩人です。現代中国の詩人については何も知りませんでした。この1949年に北京で生まれたペイタオという詩人は、1966年に始まった文化大革命の時は高校生で、学業は中断し労働者として10年程過ごしました。1970年から詩を書き始め、文化大革命が終わった翌1978年の12月に仲間と文芸誌『今天(こんてん)』を創刊したのです。
ペイタオについて書かれた文章を読むと、「朦朧詩人」とか「朦朧詩派」とかの中心人物、となっていますが、「朦朧詩人」とは何か少しも見当がつきません。Wikipediaを見ても日本語版には無く、英語版にはあったので訳してみることにしました。しかし英語版の記述だけでは今一つよくわからないので、図書館で関係する本や雑誌記事を調べました。すると文化大革命の中国では大衆にわかりやすく、社会に役立つ詩が求められていたのに、ペイタオらの詩は個人の感情を自由に歌い、比喩など多用した難解な作品で、それが「はっきりしない」「朦朧とした」詩だ、と批判されたことがわかってきました。そうしたことをまとめて「朦朧詩人」の記事をWikipediaに出したところ、8/22に「新しい記事」に選ばれました。
一方で『今天』の方はどうなったかも気になり、こちらも英語版にあったので訳すことにしました。創刊後1980年に9号を出したところで当局の取り締まりにより発行が停止され、ペイタオや仲間は1989年のいわゆる天安門事件の前後に国外に脱出しました。そして1990年にペイタオが滞在していたオスロで『今天』が復刊されています。丁度インターネットが始まった時期ですので、編集は世界各地で行われ、印刷は香港でやったそうです。
その後ペイタオは米国籍を取得し、米国を中心に大学で教鞭をとっていましたが、2008年に香港中文大学の教授となりました。『今天』の編集部も2009年から香港に移り、現在も年に4回コンスタントに発行されています。図書館では今年出た最新号までバックナンバーがずらっと並んでいるのを閲覧することができ、中国の詩人のエネルギーに感動しました。『今天』のウェブサイトからは、PDFで本文を見ることができます。
長く外国で過ごしたペイタオは2000年に来日した際、「英語世界で生活することは創作の言葉を豊かにこそすれ、別に中国語で創作する妨げとはならない」「長く海外にいることはかえって母語との関係をぐっと近づけることになる。なぜなら、作家にとって母語が唯一の現実となるからだ」と語っています※。詩人と母語との関係について、ローゼ・アウスレンダーを想起しました。ペイタオが帰ってきた香港は現在難しい状況に置かれていますが、その中でも詩を創り発信し続ける詩人の生き様を、追い続けていきたいと思います。
※是永駿編訳『北島(ペイタオ)詩集』p399. 書肆山田, 2009年 ISBN 978-4-87995-758-0
■参考
■メモ
是永駿編訳『北島(ペイタオ)詩集』(書肆山田, 2009年)冒頭の、「日本の読者へ」と題した著者の言葉より。
- 「文革が勃発して正規の教育が中断され、さらに全国的に「禁書」措置が取られたために、かえってわたしたちの読書への飢餓感を強め、雑食性を高めました。」(p12-13)
- 「『今天』の重要なメンバーのほとんどは青年労働者でした。一方、知識人は当時、ひとつの集合体として、すでに精神的に打ち砕かれてしまっており、何を提唱する力もなく、文化伝統を受け継ぐ鎖を断裂させてしまいます。しかし、無知なる者は畏れ無し、の言葉通り、まさしくそれほど正規の教育を受けたことのない一群の青年たちが敢然と時代の先頭に立ち、歴史の転換期に新しい路を切り拓いたのです。「源があればこそ水が湧き出る」、これは中国文学の悲しむべき点であり、また幸いなる点でもあります。『今天』の詩歌はふたつの伝統を直接的な資源として持っていました。ひとつは革命主義詩歌であり、もうひとつは毛沢東の古体詩詞です。あとから西洋の詩歌の影響も加わりましたが、当時はまだ外国語を理解せず、訳文に頼るしかありませんでしたから、この資源の利用は限られたものにすぎなくなります。『今天』の創造力はこの雑誌が中国の文化的伝統からは大きく逸脱していることに由来しますが、文化革命がこの逸脱を推進する動力を形成したのです。「今天派」の詩歌は謀叛(造反)によって身を立てたのですが、それは先祖への謀叛、革命詩歌への謀叛であり、自らに謀叛したにも等しかったのです。」(p14)
『北島(ペイタオ)詩集』付録「わたしは書くことで方向を探し求めてきた―北島探訪録」と題した10ページの小冊子には、ペイタオと中国文学者唐暁渡(タンシアオトウ)との対談があり、翻訳は是永駿。最後のところ(p8-9)でペイタオは中国現代詩を振り返り、次のように述べている。
- 五四運動に端を発した中国の新詩は、長い停滞の後、60年代末から70年代初めに地下で醸され、80年代初めになって爆発して大きな流れを形成し、それから商業化の90年代に入りました。(中略)80年代の半ば、「朦朧詩」が論争の中で公認を勝ち得てから、わたしの創作に空白が生じ、その状態が何年も続いたのを覚えています。もしその後の漂泊と孤立した宙吊りの状態がなければ、わたし個人の創作は後退するか停止するしかなかったでしょう。80年代の「勝利の大脱走」には、危険な種が埋め込まれていて、後に続く者に錯覚と幻影とをもたらしました。加えてスタンダードの混乱、詩歌評論の欠如、小グループの閉鎖性に、話法をめぐる権力争い、等々がこの危機を更に深刻にしました。(中略)マチャードが考えたように、詩歌は憂鬱を載せる伝送体です。あるいはこれこそが「動力と不十分さ」の問題の所在なのかもしれません。すなわち中国の新詩の伝統においては、真の憂鬱に欠けるか、あるいはその伝送体に欠けるかだったのです。(中略)もしある詩人が悲哀に打ちひしがれた人間でなければ、彼に何が書けるというのでしょう。そして一方悲哀に打ちひしがれた人々は、往々形式としての伝送体を探し当てることができないのです。ここ100年の中国新詩の歴史を振り返ってみることは価値あることであり、しっかり反省してみなければと思います。わたしには、それがわが民族のもつ傾向、相対的に信仰に乏しく、功利を重んじ、今を楽しむ傾向と関係があるように思えるのです。(2003年10月13日)