最初は野上弥生子の小説『迷路』

野上弥生子『迷路』岩波文庫上下巻

野上弥生子(1885ー1985)の名前は雑誌や新聞に彼女が書いた随筆でしか知らず、小説を読んだことはありませんでした。その野上が70歳過ぎに初めて中国を訪れ、毛沢東の活動の拠点であった延安へ行った話を新聞で読み、興味を持ちました。私の父は戦争で北支(中国北部)へ行きましたが、戦場の話は一度も聞いたことが無かったので、何か手掛かりがあるのでは、と思ったものです。そんな折に銀座の教文館書店で、岩橋邦枝『評伝野上彌生子:迷路を抜けて森へ』(新潮社、2011)をみつけたので、思わず買ってしまいました。ページを繰ったらあまりに面白く、一気に読んだことをブログに書いておいたので、抜粋します。

大分県臼杵から上京し、明治女学校へ入ったこと、夫となった野上豊一郎は法政大学の総長を務め、能楽研究者であったこと、延安へ行ったのはそれが『迷路』の舞台であったからなこと、哲学者田辺元との交友と往復書簡、野上自身の62年分の日記、3人の息子たち、渋沢栄一一族との縁戚関係、そして『森』の舞台が明治女学校であったこと(渋沢栄一は明治女学校を援助していた)など、全て初めて知ることばかりで興味が尽きなかった。野上は亡くなる99歳の最後まで書き続けていた。私もあと40年近く本を読み続けていたいと思う。」(Kadoさんのブログ 2014.4.2)

それ以来「大分県臼杵」という地名は、野上と結びついて頭の片隅にありました。2年後の2016年、9月に図書館総合展フォーラムが大分で開催されるのを知って申し込み、せっかくなので大分に所縁のある小説を読もうと手に取ったのが、野上の『迷路』でした。それは昭和戦前期の東京と軽井沢、故郷の大分、そして中国の戦場が舞台の小説で、岩波文庫上下2冊の1,300ページ近い大作です。読んでいる最中に九州へ行く日になり、羽田から大分空港へ飛び、佐賀関にいる友人夫婦と大分市内で旧交を温めました。その晩は臼杵市内に泊まって本を読み続け、翌日は野上の生家(小手川酒造)を改装した記念館に出向いてじっくり見学しました。また小説にも出てくる、臼杵市立図書館付属の荘田平五郎記念こども図書館も見た後に、大分市でのフォーラムに参加しました。本を読み終わったのは帰京してからでした。スケールの大きな物語の構想と展開、時代背景の綿密な取材、人物の詳細で的確な描写など、漱石門下の筆の力とはこういうものかと感じました。

野上ほどの作家ならウィキペディアに記事があると思いましたが、見てみると詳しい記事はあるものの、個々の作品についてはタイトルしか載っていませんでした。そこで代表作の一つであるこの『迷路』をウィキペディアに載せてみよう、と思い立った次第です。別の作家の有名な作品のページを下敷きに、「あらすじ」「主な登場人物」「発表・出版年譜」などをまとめていきました。手元の資料だけではわからないことは近くの図書館に出向き、あれこれ調べました。調べていくと小説を読んでいるときは気が付かなかった様々なことが見えてきて、その過程も楽しいものでした。

原稿ができあがると、いよいよウィキペディアに掲載することになります。記事タイトルは最初「迷路」としたのですが、「迷路」という記事は既にあり、迷路そのものを説明したもののほかに、そういうタイトルの楽曲も複数あるのでした。そこで記事タイトルは「迷路 (野上弥生子の小説)」とすることにしました。記事内容は追々整えていけばいいと思い、まずは定義文と「あらすじ」「主な登場人物」に絞って載せてみました。2016年10月11日のことです。するとなんと1時間ほどの間に、内容ではなく書式関係でいろいろ不備のあったところに、何人ものウィキペディアンから修正が入ったのです。初心者の初投稿って、こんなにたくさんの方がチェックしてらっしゃるのかとびっくりしました。その後、私も記事内容を充実させ、他のウィキペディアンの方々も手を入れてくださり、現在に至っています。編集履歴は全て残り公開されているので、だれがいつどのように修正したか確認することができます。

こうしてなんとか無事にデビューを果たしたのですが、その次の記事にとりかかったのは2年もたってからでした。小説は深く読み込めたし記事を書くのは楽しい経験でしたが、張り切りすぎたのか掲載までに使ったエネルギーは結構膨大で、疲れもしたのです。ちょっとした疑問を聞く気軽な相手もいなかったし、ハードルはまだまだ高いのでした。

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